このCB50でツーリング、そしてオートバイの楽しさを知りました
大学に入り、憧れで念願だったレース活動をはじめることにしました。が、金のない自分が出られるレースは市販車の保安部品を外してそのまま走らせる事ができる、プロダクションの125ccクラスしかありませんでした。この当時のプロダクションレースは、市販車の保安部品を外しただけで改造ができるのはハンドル、スプロケット、メインジェット等変更だけで、マフラーやレースタイヤの使用は認められないという、お金が無くても楽しめる純粋にテクニック勝負となるレースでした。 プロダクションレース時代、最初に乗ったのは中古で買ったHONDA CB125JX。初レースは筑波サーキットで行われた地方レース。わけもわからぬままにがむしゃらに走って最終コーナーで見事に大転倒。それでもレースの魅力にはまっていきました。その後は、当時主力だったHONDA CB125Tに乗り換えましたが、ちょうどこの時期に2サイクルでCB125Tよりはるかに戦闘力の高いRZ125がレースにデビュー、お金が無いので買う事ができず、大幅に戦闘力のおちるマシンで最新鋭のマシンに挑んでいました。このプロダクションレース時期にマニュアルを見ながら自分でエンジンをばらしたり、バルブをすり合わせたり、キャブレーター分解調整、タイヤ交換、フロントフォークの分解整備等々と各種メンテナンスを勉強しクランク交換やエンジン載せ替えなんかも自分で行っていました。
プロダクションレース時期を経てバイトしてお金を貯めてついに購入した初の純レーシングマシンは1年落ちの中古のHONDA RS125RW-V。 これでノービス125クラスにエントリー。中古マシンでしたが、レースでは最新モデルと互角の勝負ができました。自分にとって記念すべき最初の純レーサーでの初レースは鈴鹿での地方レース。予選(70台中30台通過)を15番手で通過し、決勝では、なんと3周にわたってトップを快走、結局7位に終りましたが、自信をつかんだレースになりました。この当時はレースブームの初期で私のクラスでも予選は多い時には100台以上集まり、決勝への道は狭く厳しいものでしたが、予選倍率2〜4倍という関門を突破して全て決勝に出場することができました。 レーサーに乗り換えてからは全日本選手権を中心に各地のレースに参戦。成績は、鈴鹿8位、筑波15位、筑波21位、筑波18位、菅生14位という結果でしたが、前述したように1年落ちのマシン、予選倍率は2〜4倍ということを考えれば予選を通過しただけでも今思えば上出来でした。 結局、全日本のポイントも獲得し、だんだん調子も上向いてきて、さあ、これからという5月の練習中に筑波で大転倒。マシンは大破。自分は救急車で病院に搬送、鎖骨の粉砕骨折という大怪我で、、3ヶ月の入院生活をおくるはめになり、結局レースから引退しました。
鈴鹿でのレース。 予選通過し コースイン直前のスナップ